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◆竜吟峡の歴史

【竜吟七滝について】

竜吟峡を流れる不動川には、一の滝から梵天の滝まで大小7つの滝がございます。

一の滝」(男滝)は、不動明王が祀られており古くから「不動滝」の名で呼ばれておりました。高さ16mで、かつては御嶽教の行場であったとも伝えられております。
二の滝」(女滝)は、戦後もしばらくまでは、滝つぼが現在よりも広く深く、遊泳場となっており、少年たちの肝試しの場所でした。

一の滝

▲一の滝

二の滝

▲二の滝

ついで「三の滝」、「えびす滝」、「あんま滝」、「昇竜の滝」、「梵天の滝」と続きます。
昭和初期に名づけられたいわれでは、人々の安寧を守る恵比寿様のように敬われている「えびす滝」、滝水が肩をやさしくもみほぐすアンマのごとく人々の体を安らげる「あんま滝」、岩の間を流れる水が竜が川を昇る姿の「昇竜の滝」、そこから竜が天に昇り、時折降り立っては人々の幸福を祈っていななく「梵天の滝」といわれております。
かつては、「アベック滝」といわれる二列に並んで落ちる滝もあったようです。

三の滝

▲三の滝

えびす滝

▲えびす滝

あんま滝

▲あんま滝

昇竜の滝

▲昇竜の滝

梵天の滝

▲梵天の滝

不動川沿いにある二つの詩歌碑にあるように、江戸時代安永年間にはここを訪れた人の記録がございます。
中山道と下街道の間にあったこの滝は知る人ぞ知る名所であったかもしれません。
不動滝(瀑)、竜吟滝などと呼ばれていたようです。竜吟の名はまた、不動川の西側の旗本馬場氏の菩提寺、「竜吟山」天猷寺(元和2(1616)年創建)の山号でもあります。

時代は下って、明治35年に国鉄中央線が延長され釜戸駅が設置されますと、沿線の名所旧跡ということで候補地が検討されました。
当時はまさに獣道のような道しかなかったこの不動滝(竜吟滝)を開発することとなり、明治45年(1912)に地元釜戸の青年団約200名ほどが二日間にわたって工事し、不動川沿いの歩道を開削し、二の滝の上に橋をかけました。
このときの開削工事の安全祈願と観光地として賑わいを祈願して、石碑がふたつ建てられ、また、三十三所観音仏が置かれたということです。

昭和40年(1965)に土岐川の洪水を防ぐ為、上流逆川(さかしまがわ)にダムが作られ、防災湖としてできたのが竜吟湖です。これ以後、滝の水量が少なくなるとともに土砂が川水に混じるようになったようです。
水の汚れの原因には他に上流の生活並びに産業排水の流入や、流域の落葉や木枝、土砂の流入が考えられます。

また、えびす、梵天の両滝付近では昭和50年代から平成に入ってからも、ツチノコらしきものが現れて話題となりました。