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◆竜吟峡の歴史

【二つの石碑について】

●観瀑詩文碑

明治45年(1912)度会保十建立、遊歩道沿いで中央自動車道を越えた付近。高さ168cm。

「竜峯尋瀑布 澗遶路崢エ 崖口噴霜雪 日(石)陵(積・稜)砕水晶
落時雷鼓動 流処海濤驚 雖(余)有盧山趣 奈無李白名」

京都浅井惟寅(図南) 安永3年(1774)

(浅井惟寅には安永2年(1773)に白狐峡にて「川沿いの釜戸の里の遠近に 焼火と見えて蛍飛び交う」の歌もあり、「釜戸浴湯日記」もある。)

●歌碑

明治45年、天猷寺和尚朴雲祖端建立、竜吟歩道開削記念、滝への遊歩道の中ほど。高さ130cm。

「不動瀑
嶮々 戯々路入幽 千尋飛瀑下巖頭 明王霊感不長尽 透雲穿石(透石穿雲)日夜流」

三州高須越崇寺良哉和尚 安永9年(1780)

「かまど山麓の野辺の秋風に ありのひぶきの花ぞ乱るる」

田中道磨(榛木翁道全)(養老郡、国学者、天明4年没)安永9年(1780)

(「ありの火ぶき」桔梗の古名、ススキの解釈も)

※他に竜吟の滝をうたったものとして、加藤義清(明治天皇御歌所の寄人)の「滝見行く 道しるべ石 苔むして 土はふ風も すずしかりけり」がある。

一の滝周辺

▲一の滝周辺

観瀑詩文碑

▲観瀑詩文碑

歌碑

▲歌碑