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◆竜吟峡の歴史

【三十三観音について】

●三十三所観音仏

竜吟峡にある石仏群の大半は、釜戸町の中切という地区にあった当時無住の寺となっていた極楽寺より移されたものといわれ、「三十三所観音」とは観音信仰から発生した西国三十三所観音霊場のそれぞれの本尊三十三体を一カ所に祀ったものです。
簡単な経緯をお話しますと・・・、

・・・かつて宿村(釜戸町宿地区)城山の中腹に岩屋観音がありました。元禄8年(1695)の土岐順礼三十三所の五番札所にも選ばれており(六番は当時中切にあった天猷寺)、また「未だ細き月の夜田刈るかまど山 いわお寂しき秋の古寺」と詠まれてもいるところでした。

しかし時がたち、荒廃すると、宝暦9年(1759)に中切八幡の横(旧天猷寺跡、また釜戸地名発祥の地である「かまど形の岩」のある付近)に、岩屋山極楽寺の名で天猷寺の隠居寺として移築されました。

この極楽寺は、善光寺参り四十八所の41番札所となるほどのお寺でした。
(大阪よりの道中、数々の名だたる古寺、清涼寺、四天王寺、当麻寺、飛鳥寺、法隆寺、唐招提寺、西大寺、東大寺、知恩院、等々を経て、36番が岐阜県下の大垣、37、38、39番と名古屋など愛知県を通った40番目が多治見の古渓山永保寺でした。そして次の42番ははるか長野県の飯田の阿弥陀寺となっておりました。)
加えて、本尊は、釜戸の上平地区にあったものを移した丈六(じょうろく・1丈6尺=約5m)の阿弥陀仏像で大変立派なものであったそうです。

その後極楽寺は明治十年代まで続いて廃寺となってしまい、また丈六の阿弥陀様も大正8年(1919)に本堂とともに焼失したということです・・・。

現在竜吟峡におかれている三十三観音仏は、このようないわれをもつ極楽寺より明治45年(1912)に移されたものです。竜吟峡地内で現存が確認されている石仏は34体(02.10.3現在)ですが、そのうち三十三観音仏と思われるのは30体で、いくつかは当館東上の白狐稲荷神社の方にあります(年代的には天保2(1831)や嘉永6(1853)などの記録があります)。

観音菩薩像

▲観音菩薩像

観音菩薩像

▲観音菩薩像

観音菩薩像

▲観音菩薩像

観音菩薩像

▲観音菩薩像

観音菩薩像

▲観音菩薩像

観音菩薩像

▲観音菩薩像

観音菩薩像

▲観音菩薩像

観音菩薩像

▲観音菩薩像

観音菩薩像

▲観音菩薩像

観音菩薩像

▲観音菩薩像

観音菩薩像

▲観音菩薩像

観音菩薩像

▲観音菩薩像

観音菩薩像

▲観音菩薩像

観音菩薩像

▲観音菩薩像

観音菩薩像

▲観音菩薩像

観音菩薩像

▲観音菩薩像

観音菩薩像

▲観音菩薩像

観音菩薩像

▲観音菩薩像

観音菩薩像

▲観音菩薩像

観音菩薩像

▲観音菩薩像

観音菩薩像

▲観音菩薩像

観音菩薩像

▲観音菩薩像

観音菩薩像

▲観音菩薩像

観音菩薩像

▲観音菩薩像

観音菩薩像

▲観音菩薩像

観音菩薩像

▲観音菩薩像

観音菩薩像

▲観音菩薩像

観音菩薩像

▲観音菩薩像

観音菩薩像

▲観音菩薩像

観音菩薩像

▲観音菩薩像

他に不動明王像が一の滝他に3体、そして文殊菩薩像1体です。 文殊菩薩には

「知恵の戸や 松の葉越しに たき見れば 毎○○た○ぬ 雪の釣峯」

天保4年(1833)

の歌がついています。

不動明王像

▲不動明王像

不動明王像

▲不動明王像

不動明王像

▲不動明王像

文殊菩薩像

▲文殊菩薩像